料理理科 7限目「香りの性質」

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鰻屋の前を通ると感じる何とも言えない甘辛い香ばしさ、隣の家から漂ってくるカレーのスパイシーな香り…。鼻をくすぐるそれらは、まさしく垂涎の匂いだ。香りはおいしさを予感させ、両者を結びつける大切な要素。香りがなければ味気ないことは、鼻づまりの時にものを食べた経験から、誰もが知っていることだろう。
 料理人は素材そのものの香りを引き出すだけでなく、スパイスやハーブ使いに代表されるように“香りの表現”にも力を注ぐ。「中華料理は多種の香味油やスパイスなどを駆使する、香りの料理です」とは『ラヴェニール・チャイナ』の今村浩之さん。『料理屋 仁』の中林秀仁さんは、「日本料理には、吸い口や天盛りなど伝統の手法がありますが、ジャンルに拘わらず、可能性を試したいですね」と話す。

“香りが溶ける”メカニズムとは

まずは香りの性質を整理してみよう。今回も、農学博士である川崎寛也先生を監修に迎えた。「香りの素である香気成分は、動植物の細胞にある水や脂質に溶けていて、細胞が壊れた時に酵素によって生成したり、加熱によって引き出されたりします」。つまり、バナナは熟すことによって甘い香りが際立ち、肉はジュウジュウと焼くことで香ばしさが生まれる、というワケだ。
 食品は多種の香気成分から成り、バナナは200種以上、珈琲は500種以上、牛肉は600種以上といわれている。また、味と香りは口中で同時に感じるから混同しやすいが別物、と川崎先生は言う。
 香気成分には、水に溶ける水溶性と油に溶ける脂溶性がある。「水は極性、つまり弱いながらもプラスとマイナスの電気的な偏りを持っています。溶かす香りにも極性があれば、例えばその分子のプラスと水分子のマイナスが引き合って馴染みます。これが水溶性の原理。対して、油には極性がないため、極性のあるものを引きつけることができない。結果、無いもの同士が仕方なくなじむ。これが脂溶性の原理です」。
 下記に料理の香り付けに多用する食材の香気成分を一覧した。表を見ると、香気成分は圧倒的に脂溶性が多いことが分かるだろう。

香気成分表
『ラヴェニール・チャイナ』今村浩之さん 『ラヴェニール・チャイナ』
今村浩之さん

四川料理の本流を守りながら、ジャンルを超えた素材使いと、洋の皿を用いた美しい盛付けで、阪神間の中華を牽引し続ける。「最近、食べるラー油を完成させたばかり。香味油には特に興味がありますね」。

『料理屋 仁』中林秀仁さん 『料理屋 仁』
中林秀仁さん

大阪の料亭や割烹で18歳から修業を積み、08年に独立。仏や伊のテクニックも取り入れ、独自の会席を供する。「大葉オイルをスズキの油焼きに使うなど、香りの演出には日本料理にはない手法も取り入れています」。



“香りが溶ける”メカニズム
“香りが溶ける”メカニズム



醤油の香りは油に移るか

前頁のイラストの通り、アルコールは水溶性、脂溶性の両方の香りを溶かす万能選手だ。そこでアルコールを媒介にし、油に醤油の香りを移す実験をしてみた(実験1)。言うまでもなく醤油(水溶液)と油は混ざらない。そのため接触面が少なく、当然のことながら香りは移りにくい。果たしてうまくいくか―。
 Aのビーカーは醤油と油。Bは、醤油とアルコールをしっかりと混ぜてから油を加えた。両者を湯煎、アルコールが揮発する80℃以上の温度まで加熱する。
 中林さん「蒸気に混じって醤油の香りがしますね」。
 Dr.川崎「油のみを取り出し、嗅いでみましょう」。
 今村さん「アルコールを入れた方が香ばしい! あぁコレ、豚の角煮の香りだ! 醤油そのものの香りとは違いますね…」。
 Dr.川崎「醤油には300種以上の香気成分があります。そのうちの幾つかがまずアルコールに溶けた。アルコールは油と混ざった後、加熱で揮発しましたが、溶けた香りは油に留まったのでしょう」。  できた油からは、いかにも醤油らしいという香りはしなかったが、独特の香ばしさがあった。おそらくこれは、醤油の中の脂溶性香気成分だろう。アルコールを橋渡しにすることで、水溶液の香気成分を、油に移すことが可能と確認できた。

●【実験1】醤油の香りを油に溶かす
醤油の香りを油に溶かす

Aは、醤油と太白ゴマ油を1:1で使用。Bは同量のアルコール(100%の食用アルコールが望ましい)も加えた。まず、醤油とアルコールを先に混ぜて香りを移しておくこと。そうしないと、醤油と油はうまく接触できず、香りが移りにくい。

醤油の香りを油に溶かす

干し貝柱で挑戦!おいしい油作り

世間は今、空前の“食べるラー油”ブームだ。そのままご飯にかけて食べられるほどパンチある味が受けているのだが、川崎先生曰く、実は油にうま味が溶けている訳ではないとか。「辛み成分のカプサイシンは脂溶性ですが、醤油や塩などの味成分はほとんどが水溶性。油には溶けません。揚げニンニクなどの具材があれば、その水分にうま味が溶けているのでは」。
 この話を聞いて俄然やる気になったのが、今村さんだ。数日前、オリジナルの食べるラー油(自信作)を完成させたばかりというグッドタイミング。「香りはもちろん、旨みも溶かしたい!」と、3つの方法で干し貝柱の香り油を作っていただいた(実験2)。
 AとBは白ネギの水分や加えた水によって干し貝柱が戻り、味成分が水に溶け出すことを狙った、と今村さん。Cは干し貝柱のみを油に浸して蒸した。具材を除け、まずは油だけを試食してみる。
 中林さん「香りがいいのはCですが、おいしいのは断然Aです!」。
 今村さん「Cは使えますね。白菜と貝柱の煮込みの仕上げに、ゴマ油の代わりに使うと、貝柱の香りが強調されていいかも。Aはある意味ズルイかな(笑)。素材が多い分、香りも味も重層的だから」。
 Dr.川崎「基本的に油には貝柱などのうま味も塩味も溶けませんから、味は油に分散している状態です。CとBを比較すると、干し貝柱の香りを油に移すのは、高温短時間よりも低温長時間の調理の方が向いている、といえますね」。
 また、Aは干し貝柱や干しエビの脂溶性香気成分の他、硫黄化合物である白ネギの成分がメイラード反応により好ましい香りに変わったと考えられる、と川崎先生。AをCのように蒸せば、さらに香りが立つ可能性もあるようだ。
 ここで、最もおいしいと評価が高かったAの油で、今村さんに一品作っていただく。香り油として完成度が高かったので、調味は塩のみ。これを15種もの野菜にトッピングして食べるという趣向だ。キノコはオイスターソースで煮て、大根は甘酢漬けにと、ひと手間加えた野菜の表情が豊か。中林さんは「味のバリエがあって楽しい!この油、お浸しに天盛りするなど日本料理にも使えそうです」と。今村さんも「香りの強い油に負けないよう、野菜はそれぞれ調理して持ち味を立たせました。一皿にいろんな味わいがあるからお得でしょ」と笑ってみせた。

季節野菜 ~蒸したり、焼いたり、揚げたりetc.~ 旨みオイル添え

季節野菜 ~蒸したり、焼いたり、揚げたりetc.~ 旨みオイル添え
エリンギ、ミョウガ、ヤングコーンはグリル。パプリカはピーナッツ油や香菜で和え、白瓜は紹興酒と塩水に漬けた。これらの野菜を食べ合わせたり、旨みオイルをかけたり、その具材のみをトッピングするなど、食べ方は様々。その自由さがいい。

【実験2】干し貝柱の香り油を作る
Aは、干し貝柱、白ネギ各15gを細かく刻み、粉末の干しエビ10gと混ぜておく。200℃前後の白絞油60mlを注ぐ。 干し貝柱の香り油を作る Bは、刻んだ干し貝柱15gに15mlの水を加えて20分間置いた後、Aと同じく200℃前後の白絞油60mlを注いだもの。Cは刻んだ干し貝柱15gと白絞油60mlを入れてラップ、強火で約2時間蒸した。 干し貝柱の香り油を作る 〈今村さん作〉食べるラー油 〈今村さん作〉食べるラー油
パプリカや一味唐辛子、砂糖、醤油などを混ぜ合わせて水分を粉に吸わせ、水飴のようにどろっとさせる。それに、白ネギやショウガ、干し貝柱などの風味をゆっくり移して漉し、140℃に熱した油を少しずつ加えた。揚げたエシャロットやニンニクのサクサク感を保つため、醤油の水分を調整するのに苦心したそう。


刺身の革命?香る、動物脂

脂溶性の香気成分が植物油に移ることは分かった。では、動物脂にはどうだろうか。もし可能なら、スダチが香るのに姿はない、手品のような一品が出来上がるかもしれない。この実証のため、中林さんが用意したのは、脂肪が豊富な魚の代表格・トロだ(実験3)。
 クッキングペーパーでサクを包み、その上から刻んだ大葉を全体にまぶす。これを真空パックにし、24時間氷温保存。造りにして、塩で味わってみた。
 今村さん「あ、爽やかで優しい香り! 後でほわっときますね」。
 中林さん「夏場にいいかと。生の魚を嫌うお客様にも気に入ってもらえそうです。“醤油に頼らない刺身”ができました!」。
 Dr.川崎「シソの主な香気成分ペリラアルデヒドは脂溶性。これがトロの脂に溶けたのでしょう。しかし脂が固体なので、液体の植物油のように香りが行き渡らない。外側のみに移っているはずです」。
 中林さん「確かに外側のほうが香りが強い! 切り分けてみるとはっきりしますね」。

【実験3】動物脂に香りを移す

【実験3】動物脂に香りを移す トロに大葉が直接触れると色移りするため、紙塩の発想でクッキングペーパーに包んでから、全体にまぶした。大葉はより細かく刻むほうが、細胞が壊れるので香りやすい。香りは揮発性なので、真空パックも効果的。


“染み柚子”振り柚子を越える!?

次の実験の題材は合鴨。実は中林さん、かなりの苦戦を強いられたようだ。「トロ同様、柚子の香りを鴨に移すことはできるのですが、焼くと香ばしさが勝って柚子の香りが飛んでしまう。けれど鴨はやはり表面を香ばしく焼きたい。そこで柚子の香りを付けてから、低温でじんわり味を入れました」。
 まず、ロースを皮目だけ焼き、常温に戻す。焼いた時に出た脂にすり柚子を加えて鴨に塗り付け、3日ほど真空保存し、香りを染み込ませる。これを煮汁と共に真空パックに入れ、湯煎で優しく火入れする。いわゆるボイル式ローストビーフの手法だ。かくして完成した鴨ロースの味や、いかに。
 今村さん「鴨と柚子の香りが一体化してますね! 優しい味ですが、豚バラ肉に応用すれば中華にも使えそうです」。
 中林さん「何気なく、でも確かに香りますよね!」。
 Dr.川崎「柚子の香気成分であるリモネンなども脂溶性なので、特に皮目に香りが移っていますね。振り柚子では香りにムラが出ますが、これは均一に香ります」。
 中林さん「苦みといえば、鮎をキュウリと一緒によく出したりするんです。香りが似ている気がして。そんな香りの繋がりって…」。
 Dr.川崎「鮎にもキュウリの青臭さであるキュウリアルデヒドは含まれていて、これは油に溶けます。食材の組合せを、同じ香気成分を持つという視点から考えると広がりますね! でも、この料理法があれば、キュウリの香りのする豚バラ肉も作れます(笑)」。

〈中林さん作〉柚子の煎り酒

〈中林さん作〉柚子の煎り酒 梅干しの代わりに柚子の香りを利かせたオリジナル。青・黄柚子の両方を使うのがポイントだ。日本酒に昆布と黄柚子の皮を入れ、80℃で15分間火入れ。そこに乾煎りした米を加えて裏ごしする。青柚子はすりおろし、同量の日本酒に加えて1日置いて、裏ごし。両者を合わせて完成だ。白身魚の造りに最適だそう。


今回の検証を経て、今村さんは「素材の脂に香りを移すテクニックは、ヘルシーに仕上げる手法として、油を多用する中華では有効。自分のものとして昇華したい!」と意欲満々のご様子。一方、中林さんも「針柚子や木の芽はあしらいと思われて、よけられてしまうんですが、香りを素材に移せば、その心配はないですから。もっと勉強して表現のバリエを増やします!」と嬉しそうに話してくれた。
 柚子の姿はなくとも、噛めばふっと柑橘系の香りが鼻を抜ける。そんなサプライズな皿も、香気成分の特性を把握すれば、効果はより鮮やかになる。逆に、素材の味だけを立たせ、香りを抑えることも可能だろう。香りは目に見えない。だからこそ、その性質を知ることが大切なのではないだろうか。 鴨の冷菜

●鴨の冷菜 柚子の香りの合鴨ロースと翡翠ナス。ナスは色よく仕上げるため、190℃で揚げた後、水に落とし、再度中まで火を通して急速冷凍。カツオだしや白醤油の地に丸1日漬け込んだ。仕上げには柚子風味の煎り酒を注ぐ。前菜や口替わりに。

『あまから手帖』2010年8月号より転載