おいしい落とし穴――エッセイスト・森下典子

おいしい落とし穴――エッセイスト・森下典子

あの頃の“美味しいコラム”

2023.11.13

文:エッセイスト・森下典子 / イラスト:矢田勝美

私が高校一年の頃、母はオーブンを買って、洋菓子作りに熱中していた。最初はマドレーヌやクッキー。スポンジケーキ、洋酒に漬けたドライフルーツをいっぱい入れたパウンドケーキ、そしてパイと、母のお菓子作りは進化を続けた。

あの頃のわが家は、まるで「お菓子の家」だった。学校から帰ると、玄関まで甘~い匂いがした。そして、「今日のケーキは、うまくできたわよ!」とか「今日は失敗……」などと、その日の出来不出来に一喜一憂する母の声がした。

食べ盛りで、甘いものに目がない私は、蜜壺に落っこちた蟻のようだった。家に帰ると、制服も脱がずにケーキやパイを食べた。

母の最高傑作は「バナナ・カスタード・パイ」。丸いパイの台の上に、薄切りのバナナが並び、たっぷり塗られたカスタードクリームを覆うように、その上を生クリームが美しく飾っていた。あのおいしさは、母の洋菓子の金字塔として、今も記憶に残っている。

しかし、私には、バナナ・カスタード・パイ以上に、忘れられないものがある。シュークリーム……いや、シュークリームの皮である。

「あー、またダメだ! なんでだろう。レシピ通りにやったのに、なんで膨らまないんだろう」
学校から帰ると、台所から、母の悔しそうな舌打ちが聞こえた。何度やってもシュー皮がうまく膨らまない。母は何度もトライしたが、失敗続きだった。

オーブンの天板の上の失敗作を、ザザーッと皿の上に乗せる。台所には、シュークリームにならなかったシュー皮の山が、いくつもあって、あたりにバターの匂いがした……。

私は、その、できそこないのシュー皮をじーっと見つめ、唾を飲んだ。亀の甲羅のように平べったいの、破れたの、ちょっと焦げたの、いろいろな失敗作があった……。それが、なんとも美味しそうなのだ。特に、膨らみそこねた皮の内側の、淡い黄色の部分がおいしそうでたまらない。

私はシュークリームを食べた時、皮の内側の空洞の、パフッとする、あの空を踏みぬいたような、空振りしたような食感が好きだった。隙間なく、みっしりカスタードクリームの詰まったシュークリームが食べたいのではなく、本当は、シュー皮の空洞の、底の抜ける感じが味わいたいのだ。踏み抜いた瞬間、パフッとして、甘い匂いと、香ばしいバターの香りが鼻腔をくすぐる。あれは、「おいしい落とし穴」だ。

私は、できそこないのシュー皮から、目を離さずに言った。
「それ、食べたい!」
「いいわよ。カスタードクリームあるから、つけて食べなさい」
母は「あ~あ」と、落胆した声で、失敗作の皿を、ひょいと私に渡した。

私はカスタードクリームよりも、粉砂糖をサラッとかけただけのものが好みだった。粉砂糖で雪景色みたいになったシュー皮を一つ手に取り、口に入れた。

パフッ、サクッ、ふわ……。何と軽い、この「落ち感」! 私はバターの風味にめくるめいた。舌に消えゆく粉砂糖のほのかな甘み……。

夢のようだった。軽いから、いくらでも食べられる。このまま母がシュークリーム作りに失敗し続けてくれたら、なんて素敵だろう。私はずっとこのシュー皮が食べられるのだ……。

しかしある日、ついに母はコツを体得し、大きくふっくらと膨らんだシュー皮が作れるようになった。

「どう? おいしいでしょ!」
ケーキ屋さんのようなシュークリームに胸を張る母に向かって、私は、
「失敗した皮の方が好き……」
とは、とても言えなかった。

(「あまから手帖」2022年10月号 連載「あくまでも口福」より)

エッセイスト・森下典子さんのコラム「おいしい落とし穴」もりした のりこ●神奈川県生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒。エッセイスト。1987年に『典奴どすえ』でデビュー。2018年、ロングセラー『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ―』(飛鳥新社、新潮文庫)が映画化。2019年、続編『好日日記―季節のように生きる』、2020年『好日絵巻―季節のめぐり、茶室のいろどり』(共にパルコ出版)を上梓。最新刊は『青嵐の庭にすわる「日日是好日」物語』(文藝春秋)。

あまから手帖2022年10月号/クチコミ、北摂

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