新潟を旅する〜雪の上越へ① 映画館、朝市、リゾートホテル
雪深い新潟県上越地方への旅へと出かける。
日本最古級の映画館「高田世界館」
旅が思い通りに進んだためしがない。目当ての店が臨時休業だったり、嵐で飛行機が欠航したり。今回だってそうだ。昼すぎには上越の街をぶらぶらしようと思っていたのが、強風で地元の電車が遅れに遅れ、ようやく高田駅に到着すると、すでに日は暮れ、雪が音もなく降りしきっている。暖を取ろうと喫茶店を目指すも、よりによって定休日。指先はかじかみ、鼻のアタマがしびれてくる。ともかく暖がほしい。
闇雲に商店街を歩き回っていたら映画館の灯りが見えて、ドアをギィと押して飛び込んだ。「本編が始まったところです、どうぞ」と劇場スタッフがささやく。
ロビーにはストーブが焚かれており、時計の音がチックタックと響いている。ああ、日本最古級の映画館があると聞いていたけれど、ここだったのか。
「高田世界館」は明治44年に芝居小屋として始まり、大正時代はじめに映画館となった。2007年頃には成人映画がかかっていたが、中越沖地震などの影響で建物の維持が難しくなり、2009年から市民有志と映画ファンが声をあげ、NPOによって運営されるようになったという。ユニークなのは、寄付を募るだけでなく、椅子再生プロジェクトや瓦修繕プロジェクトなど、ファンが自ら手を動かしながら、建物を維持しているところだ。
分厚いカーテンをかきわけ、手探りで席につく。スクリーンの灯りをたよりに見回せば、観客は4人ほど。けれども不思議とさみしい感じはしない。むしろ映画館独特の静けさに安心する。一気に作品の世界に没入した。
上映されていたのは『キノ・ライカ』。フィンランドの小さな町に映画館が完成するまでを追ったドキュメンタリー映画だ。まるでここ高田の映画館の始まりの日を見ているような気持ちになった。
エンドロールまで見届けると、灯りのともった館内をしみじみと見回す。赤い椅子、マホガニーの天井、ゆったりと曲線を描く2階のバルコニー。この映画館が出来たときもきっと、さっき観た映画のように町の人は歓喜したことだろう。映画館は希望の光となったに違いない。
この日のロビーでは、暖房代支援グッズフェアをやっていた。映画館のイラストが描かれたトートバッグをホクホクと買い込む。思い通りに進まない旅も悪くないな、と気を良くしながら。
朝市が立つ町で「四・九の市」へ
高田には朝市が立つ。明治43年から続いているそうで、当時は紅白の電燈で飾り、花火を打ち上げ、五分一芸者の手踊りで祝ったとか。現在でも、ひと月に21日間も市が立つ。「一の日市」「三・八の市」「四・九の市」「二・七の市」。
早起きして出かけたのは「四・九の市」。雁木通りで知られる大町で、朝の8時から昼前まで開かれるという。雁木とは、各家々の軒からせりだした雪よけのことだ。
はりきって朝一番に向かったものの、数軒がぽつんぽつんと点在するのみ。「この時期はまだ、寒いからねえ」と、通りがかりの人。それでも、扱われているものはどれも実直で心惹かれる。干し芋はべっこう色になってねっとりしているし、クルミは種を割って、中身を刳り出してある。手の空いたときにコツコツとためたのだろう。小走りにやってきた人が「こないだの大根、おいしかった! また持ってきて」と言って去っていった。
花を売っている人もいた。寒椿の赤々とした色は、雪景色のなかでひときわ目をひく。「このあたりに花屋が一軒もなくなったから、仕入れてくるようになりました。春になったら庭で育てている矢車草も出ますよ」。
乾物を並べている露店もあった。ゼンマイは水で戻したのもあって、「二・七のときにお客さんに頼まれたの。餅もほしいと言っていたから、雑煮にでも入れるんだろう」と女の人がいう。「前は三・八にも出てたんだけど、身体を悪くしたからねえ。いまは二・七と四・九だけ出しているの」。それにしたって大変だろうと思っていると「みんな頑張っているからねえ。ほら、向かいのあの人だってね、ご主人を亡くされてから一人でお店を続けてるのよ」と教えてくれる。ちょうどワゴンで女の人が到着して、せっせと荷を取り出している。
朝市の人たちはこんなふうに、世間話の合間に他の店をさりげなくすすめてくれる。その向かいの露店に立ち寄ると、これまた素晴らしい。地元の豆が10種類ほど、ずらりと並んでいる。きんとんささげ、手亡、餅豆、打豆など。手作りの漬物やパン、餅なんかもある。豆は、畑をやっている近所の人から預かるのだそうだ。「うちは市に出ているから、畑までは手が回らないです」と笑うけれど、漬物や餅などの加工品は一人で手作りするのだそうだ。
一抱えもある樽に、沢庵がぎっしりと漬かっていた。「この辺りでは、沢庵を漬けるときにナスの葉を入れるんです。こうすると風味がいいんですよ」。笹団子は葉がきっちりと巻かれていて美しく、まめな暮らしぶりが見えてくるようだ。この方は夫婦で働いていたときも一人になっても、かわらずに漬物を仕込み、笹の葉を摘み、米を蒸し、季節ごとの仕込みものを続けているんだな。悲喜こもごもありながらも、日常の手をゆるめず一日一日を生きていく、芯の強さ。
雁木通り沿いに露店がずらりと並ぶのは、春が近くなってから。その頃の賑わいは格別だろうけれど、十分に満たされた。
スキーと温泉とリゾートホテルと
見渡す限りの雪、雪、雪、の妙高で、ちょっと変わった雪を見かけた。「赤倉観光ホテル」でのこと。ここは高原リゾートホテルの先駆けだ。ホテルオークラや帝国ホテルを手掛けた大倉喜七郎が、昭和12年12月12日に創業した。標高およそ1000メートル、ホテルの眼の前にゲレンデが広がり、国内外からのスキーヤーが集う。
江戸時代、この一帯は高田藩が営む湯治場として知られていた。大倉は、温泉はもとより眺望こそが宝と考え、妙高山の中腹にホテルをひらいた。
実際、メインダイニングルームからの眺めの素晴らしさといったらない。正面には斑尾山を望み、黒姫の山々が連なって、野尻湖の青が覗く。窓辺のテーブルにつくと、妙高の自然に包まれているような心持ちになる。
奥の席は一段高くなっていて、そこからも眺望を楽しめるようになっている。「しかも、この席にはもうひとつの楽しみがあるんですよ」と、総括支配人の後藤幸泰さんがテーブルの上に銀のスプーンを覗いてくださいと誘う。よく磨かれたスプーンには、天井のライトが映りこんでいる。それが、まるで雪の結晶の形に見えるのだ。わあっ!と思わず歓声をあげてしまう。後藤さんは、笑みをたたえて「この建物が作られた当時からずっと変わらない、もてなしです」。
当時の内装を手掛けたのは、フランクロイドライト建築設計事務所にいた繁岡鑒一さん。妙高には四季折々の魅力がある。春は芽吹きで山全体が輝き、夏になれば鳥の声が響き、秋には紅葉に包まれる。けれども彼は冬の、雪にすっぽりと包まれたこの土地の美しさを、訪れる人に伝えたかったのだろう。
赤倉観光ホテルの売店には、パンフレットやアメニティの絵柄を復刻したグッズがある。マッチのデザインは付箋に、新聞入れはトートバッグや水筒になっている。当時のリゾート感が伝わってきてたまらなく良い。このイラストを手掛けたのも繁岡さんだ。
ベーカリーのパンやお菓子も、素晴らしい。創業当時、ホテルのベーカリーを率いたのは岸本光雄さん。帝国ホテルに日本初のベーカリーをつくったイワン・サゴヤンさんに師事し、ホテルパンの技術を継承した。いまもそのレシピが生かされている。妙高山の湧水で練りあげたバゲットや、正統派の焼き菓子など、古き佳き時代の味わいがある。
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- 施設名
- 赤倉観光ホテル
- 住所
- 新潟県妙高市田切216
- 電話番号
- 0255-87-2501
- 交通
- 妙高高原駅から魅了送迎バスあり(予約制)
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