歌人・岡本真帆 エッセイ+短歌 /特集:20時からの楽しみ
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朝書くための、夜のこと
会社員を続けながら、短歌やエッセイを書く仕事をするようになって、もうすぐ4年になる。
10時から19時は、会社員の勤務時間。その前の、朝の二時間が、私の大事な執筆の時間だ。目覚めてすぐ、すんなり書くことが見つかることもあれば、なかなか道筋が見えず途方に暮れることもある。それでも朝のぼんやりとした明るさの部屋の中で、キーボードを叩くうちに、思考がはっきりとしてくる。朝一番の集中力をすべて捧げて、迷っても、ぜんぜんだめでも、とにかく前に進める。そのうちにだんだん書きたかったものが見えてくる。私のなかにあったものが、徐々に輪郭を得ていく様子を見届けられるあの時間を、私はとても大切にしている。
自分には朝の二時間しかない、と思うと、その貴重な時間を棒に振らないようにと夜の過ごし方には気をつけるようになった。兼業作家は、いわゆる体力ゲージの管理が本当に大事だ。小さな注意と工夫の積み重ねが、過度な消耗を避け、回復を支える。飲みに誘われても、深い時間までは出歩かないようにしている。
でも、遊びや出会い、楽しいことが多いのはやはり夜だと思う。友人からの誘いを全部断るのは、私も本意ではない。だから本当は体質的にいくらでも飲めるお酒を、ぐっと堪えて控えめにしたり、二軒目には行かずに帰ったり、少しだけ顔を出して申し訳なく思いながらその場を後にしたりと、いい塩梅を探るようになった。
「二軒目」という概念は、私にとって一軒目よりも少し理性的な存在だ。帰るか、行くか。行くとしたら、どれくらいで切り上げるか。どうしても計算が入り込んでしまう。それが週末の夜であれば、二つ返事で行くと言えるけれど、平日はそうはいかない。
だから私は、20時からの一軒目に自分のすべてを捧げるような夜の過ごし方が好きだ。一つのお店で、心ゆくまで料理を食べて、お酒を飲んで、お腹も心も満たされたい。
『酒と肴 くじら山』を知ったのは、一緒に本を作っている編集者さんの紹介だった。当時中央線沿いに住んでいた私は、吉祥寺にいいお店があると連れて行ってもらったのだ。細い階段を上り、ドアを開けると、カウンター席が中心の店内はほぼ満席で、こぢんまりとした空間に心地よい熱気が満ちている。打ち合わせを兼ねてくじら山に初めて訪れたとき、注文するものすべてがおいしいことに驚いた。なかでも私の心と胃袋を掴んで離さなかったのは、前菜の盛り合わせだ。
円形のお皿に、その時々の旬な食材を使った九種類の前菜が並ぶ。時計回りに一品ずつ説明を受ける。この時間、回っている観覧車を見つめているようで、楽しいパレードを眺めているようで、食べる前から嬉しくなってしまう。
ナッツをたっぷりまとった生春巻きは、ライスペーパーごしに具材が透けている。この日の中身はみかんと鶏ハム。くじら山は、季節の果物をお料理に取り入れるのが本当に上手いと思う。生春巻きはおいしいことを見た目からも確かめられるところが好きだ。林檎とカッテージチーズのマリネも、洋梨と春菊の白和えも、こんな組み合わせがあったのか、と、驚きで目の前が開けたような気持ちになる。
燻製卵の乗ったポテトサラダは、粗めの粒になったじゃがいもの食感と、卵のスモーキーな香りが絶妙に混ざり合うし、食べる前から絶対においしいと分かる生ハムと柿とかぶのマリネは、真似をして自宅でも作るようになってしまった。合鴨のたたきはしっとりとした食感で、噛めば旨みが口のなかにじわ……と静かに広がる。何を食べてもおいしく、豊富なドリンクメニューのなかから、今日はどのお酒を一緒に楽しもうかと悩む時間はとても贅沢だ。
何を食べてもおいしい、というのは、すごいことだ。
くじら山の料理は、いつもささやかな豊かさを教えてくれる。見はらしのいい場所に立って、遠くを眺めているときのような喜びがある。そして、この料理のおいしさは、お酒があることでさらに特別なものになる。お料理がおいしいからこそ、その味覚をもっと引き立てたくなって、合うお酒を探してみる。無数にある正解のなかから選び取った一杯が、その夜だけの特別な答えになる。料理を楽しみ、お酒を楽しむとは、きっとこういうことなのだと思う。
私はもう何度も友人を誘ってここを訪れている。頻度は高くないけれど、自分のなかでは、すっかり行きつけのお店になった。そんな場所ができたことが、素直に嬉しい。
兼業作家は体力ゲージの管理が大事だと言ったが、気力、いわばMPの管理も同じくらい大事だ。RPGで例えるなら、魔法のような特別な技を使うときに消費するもの、と言えばいいだろうか。日常生活では、生活を回すための基本的なエネルギーにHPが使われ、文章を書いたり、短歌を作ったり、頭と心と魂を総動員するときに使われるのがMPだと思っている。
HPを回復させるのが休息だとしたら、MPを回復させるのは、私にとって間違いなく感動だ。深く感じ、心が震えること。予想外の出来事に、心から喜びが湧いたとき、私のMPは満タンになる。
食事をすること。おいしいね、と言い合い、今ここにある喜びを分かち合うこと。くじら山で、好きな人たちと料理を囲んでいるとき、この世界は、私が思っている以上に素晴らしいのだと確信する。目の前のあなたや、この世界のことを、心から信じられる夜がある。そういう時間が、私の生命力を満たし、また明日を生きていく自信をくれる。
心にまで栄養を行き渡らせてくれる、いい夜があるから、私はまた、朝書き始めることができるのだ。

特集:20時からの楽しみ
1軒目のあと、もう1軒くらい行きたいなと思う、そんな時間。
仕事帰りに、遅掛けの食事を食べる、そんな時間。
コロナ前ほど遅くまで飲み歩かなくなったけれど、
それでも時計が20時なら、家に帰ってしまうのはもったいない。
20時以降の楽しみをお届けします。
writer

岡本真帆
okamotomaho
1989年生まれ、高知県出身。会社員として働く傍ら、歌人として活躍。日常の情景を軽やかに綴った短歌はSNSでも多くの共感を呼び、度々話題となる。2022年のデビュー歌集『水上バス浅草行き』(ナナロク社)は、歌集としては異例の2万部を超えるロングセラーに。2025年『落雷と祝福「好き」に生かされる短歌とエッセイ』(朝日新聞出版)を上梓。『岡本真帆の「歌人と歌人の思い出ごはん」(HBホーム社文芸図書WEBサイト)連載中。
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