料理屋の寿司──神戸・北野『百味処おんじき』の「鯛とマグロのにぎり」

小粋な先付に始まり、牛肉の一品も楽しめて、締めは3種のデザートで。神戸・北野の日本料理店『百味処おんじき』の夜のコースは、お造りの一つとして2カンのにぎりが供されます。見た目は寿司なれど、食せば似て非なるもの。なんと魚のだしで米を炊き、塩ではなく醤油、酢ではなく柚子果汁で味を付けた寿司飯です。その創意工夫に、店主の馬頭(まとう)正樹さんの料理哲学が息づいています。

山の手の風流な日本料理店

晩夏の夜にいただいたコースは、神戸の山の手によく似合う優美なものだった。先付に続く八寸は一つ一つ手が込んでいて、旨みの深いお椀は“鱧松”。淡路や明石の天然ものを2種のお造りで堪能し、続く一皿に心を鷲掴みされた。それが今回のワンディッシュ。「料理屋の寿司です」と供された2カンのにぎりは、3つめのお造りの位置付けだという。

有名店でン10年修業して独立したワケではないので、王道の日本料理を僕がやっても真似事になってしまう。自分らしい料理をお出ししようと、約20年、試行錯誤を続けてきました。兵庫県は海の幸に恵まれていますし、神戸のお客様は鮮魚に親しんでいるので、お造りでも工夫が必要だと思って。寿司にしたら、皆さん、すごく喜んでくれるから。

『百味処おんじき』店主・馬頭正樹さん
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店主の馬頭正樹さんは御年58歳。日本料理人としてはベテランの域だ。2007年に神戸で『百味処おんじき』を開き、2年半でミシュランの星を獲得。さらなる高みを目指して、2014年に現在の場所に移転を果たした。内装は、数多の名店を手がけた杉原 明氏のデザイン。網代天井に格子の丸窓、壁面には書院風の意匠を取り入れている。塗りのカウンターに立つ馬頭さんは一徹さを感じさせるが、その経歴は意外性に富んでいる。

高校を卒業して、姫路の老舗『生松(おいまつ)』で懐石料理を学びました。古参の方がやめたばかりで、主人の横で煮方の助手を務めさせていただいて。その後、幾つかの和食店を経験し、26歳でジャカルタへ。料理長として和食ではない3軒のレストランを任されましてね。28歳で独立し、姫路で100席を超える炭火と魚のカジュアルな店など3店舗を経営したのですが…。経営者より、料理人でいたかったんですよ。39歳で一念発起し、神戸で日本料理店を始めました。

「百味処おんじき」の外観と内観
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魚のだしで炊いた柚子香る寿司飯

馬頭さんは、日本料理を独学で磨いてきた人だ。若い頃は学びたくとも本を買うお金がなく、休日には書店で片っ端から料理本を読み漁ったという。あしらいに木の芽を多用する理由は? 若竹煮の本質とは? 基礎的なことから一つずつ体得していったのは、神戸で開業してからの20年だったという。遅いスタートゆえに、ロジカルに仕事を分析しながら独自の世界を築く。そんな研鑽の日々の中で“料理屋の寿司”は生まれた。

日本料理人として寿司を考えてみようと思って。白飯に塩をどのくらい入れるか、酸味は米酢か赤酢か、白バルサミコ酢か。いろいろ試してみたんですよ。例えばイカだったら、塩にぎりと合わせても旨いけど、このご飯に少し米酢を加えるとイカの甘みが立ちます。ところが、ワサビをかませて、上からスダチ果汁をちょっと搾ると、イカの存在感は弱くなるんですよ。

イカを握る
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この日は特別に、塩飯→塩酢飯→ワサビとスダチを加えたものと、イカを順々に握ってくれた。馬頭さんがこれまでの試行錯誤を伝えるため、特別に用意してくれたのだ。言葉だけでなく、味覚で理解させてくれる。こんな取材は初めてだ。続いて、砂糖入りの塩酢飯。格段に旨みの奥行きが増した。「これが昔ながらの銀シャリですよ」。そして、最後に握ってくれたのが馬頭さん流の“料理屋の寿司”。舌にシャリがのっかった瞬間に、旨みが膨らみ、口中に広がっていく。

イカのにぎり
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魚のだしに濃口醤油を加えて米を炊いています。僕は丸っぽで魚を買うので、中骨がたくさん出るんですよ。これを180℃で15分ほど焼いて、水、昆布、ショウガと白ネギの青いところと合わせ、その15%量の酒を加えて30〜40分煮出したのが、魚のだしです。米を洗ったら30分浸水してから炊き上げて、芯までだしの旨みを染み込ませています。このご飯に柚子果汁を合わせたのが、うちの寿司飯です。

「百味処おんじき」の寿司飯
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“当たり前”の先にある創意工夫

“料理屋の寿司”は2カン付けで供される。この日は、淡路の天然真鯛と銚子の本マグロのトロ。真鯛には、三つ葉を茹で、ショウガとすり合わせたペーストをのせ、煮切り醤油を吹きかけて。塩味も酸味も穏やかな寿司飯が、力強い鯛の旨みと拮抗している。青い香味が立ち上がると、その後からほんのり寿司飯の柚子の香が。醤油でコトコト炊いた昆布を戴いたトロは、脂の旨さが際立っている。

「百味処おんじき」の寿司
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寿司飯の塩分と酸味は極力抑えて、醸造酢にはない柑橘香を柚子果汁で加えて。ネタの持ち味を立たせつつ、旨みの強い寿司飯を作りたかったんです。ご飯に調味料を纏わせるのではなく、染み込ませる。炊き込みご飯と同じですね。カツオだしや昆布だしでもやってみたんですが、しっくりこなくて。魚と合わせるんだから、魚のだしがいいかな、と。塩分も塩よりは醤油の方が柔らかいし、なんせ発酵の旨みがありますから。

1カンの寿司を分解し、塩や酢の意味を一つずつ分析して、理想のカタチを模索する。そうして辿り着いたのが、塩も酢も使わない“料理屋の寿司飯”。なんとも独創的なアプローチだ。馬頭さんは、このにぎりに「僕の料理哲学を込めています」と語る。

神戸「百味処おんじき」の馬頭正樹さん
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毎朝6時には中央市場に行って、魚屋が仕入れるのと同時に僕も魚を選びます。いいなと思う魚は1尾か2尾しかないですから。でも、その素材に頼りすぎてはダメだと思うんです。素材そのものではなく、料理として昇華させた味わいを楽しんでいただきたい。ですから、手間は惜しみません。当たり前のことを、ちゃんとやる。その上で、常に新しい料理を模索し、創意工夫を続けていく。それが僕の料理哲学です。

9月1日の取材日、馬頭さんは重陽の節句にちなんだ設えを調えて迎えてくれた。掛け軸に選んだのは、「風吹不動天辺月」。風吹けども動ぜず天辺の月。何が起きても、心を乱さず、揺るぎない意志を持ち続ける“不動の境地”を表す禅語だ。「月見の季節なんでね」と馬頭さんは照れ笑うけれど、力強い墨書は『百味処おんじき』にとてもよく似合っていた。

「百味処おんじき」九月の設え
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writer

中本 由美子

nakamoto yumiko

青山学院大学を卒業し、料理と食の本を手掛ける東京の「旭屋出版」に入社。4年在籍した後、「あまから手帖」に憧れて関西へ。編集者として勤務し、フリーランスを経て、2010年から12年間、編集長を務める。21年、和食専門ウェブ・マガジン「和食の扉〜WA・TO・BI」を立ち上げ、25年に独立。フリーの食の編集者&記者に。産経新聞の夕刊にて「気さくな和食といいお酒」を連載中。

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